藤田 嗣治の「寝室の裸婦キキ」や生い立ちは?最後の女君代とは?

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現在生誕120年を迎えてフィクションとも言える
映画「FOUJITA」が公開中の藤田嗣治
(ふじだつぐはる)その半生は1800年代後半に
生まれて、その大半をフランスで過ごしている。

彼の代表作は「寝室の裸婦キキ」。
女と猫をこよなく愛した男藤田。

フランスでは、その才能を認められるも
ついに最後まで藤田生前には日本彼を評価
されることがなかった藤田。

彼の生い立ちやフランス社交界伝説の女キキ
や最後の女君代までを追ってみましょう。
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藤田 嗣治プロフィール

  
  藤田 嗣治(ふじたつぐはる)
生年月日 1886年11月27日
出身    東京府牛込区新小川町(現在の東京都新宿区)
死没 1968年1月29日(満81歳没)
スイスの旗 スイス チューリヒ
国籍 日本の旗 日本
フランスの旗 フランス
教育 東京美術学校卒
藤田プロフィール

藤田 嗣治の生い立ちとは?

明治19年 医師であった父嗣章のもと4人兄弟の
末っ子として生まれる。

父は陸軍軍医として台湾や朝鮮などの外地衛生行政に
携り、森鴎外の後任として最高位の陸軍軍医総監
(中将相当)にまで昇進した人物。

子供時代から絵を描くことが好きだった 嗣治は
父の転勤に伴い7歳から11歳まで熊本市で過ごす。

中学を卒業するころには既に画家を目指してフランス
留学したいと言いだす。
藤田生い立ち
いったんは森鴎外の薦めもあって1905年に東京美術学校(
現在の東京芸術大学美術学部)西洋画科に入学する。

しかし当時の流行はすでにフランスから帰国していた
黒田清輝らの影響で、印象派や、光と使った写実主義が
もてはやされ、それに失望した嗣治は他の方法でどんどん
活動。

その活動とは、観劇や旅行、同級生と連れ添っては吉原
などで遊びまくったようだ。

最新映画「FOUJITA」オダジョーがまさかの藤田です
だが全く画家として諦めてたわけでもなく展覧会などに出品するが
やはり主流は黒田清輝らの勢力で圧倒されていたらしく全の策本で
落選している。

これに幻滅した彼は単身パリに向かうこととなる。

藤田 嗣治の代表作「寝室の裸婦キキ」

彼の技法の代表作でもあるといわれる
「寝室の裸婦キキ」この「乳白色の肌」こそ
藤田の独特の技法であって、当時誰も真似できない
藤田だけの出せる色彩だった。
藤田キキ
そのモデルとなったのが「モンパルナスの女王」
とまで言われてあの時代の芸術家たちに愛されて
きたキキだった。同時代にはココシャネルがいる。
藤田キキ
キキはあの時代の画家たちのアイドルだった。
本名はアリス・プランといいパリの軍事工場に
出稼ぎにきていた女だった。

当時はとても出稼ぎだけでは食べてはいけず
買春せざるを得なかった女達がほとんどだった
時代にキキは自らの魅力を持って、貧しい画家
たちのアイコンとなる。

彼女はシュールレアリスムを代表する写真家の
マン・レイの愛人となり、その一方で画家の
キスリングの恋人にもなりました。

藤田キキ
その人気ぶりと売春婦さながらのファッションは
当時パリの雑誌や新聞を賑わせるほど有名だった
そうです。

マン・レイが撮影した写真の中のキキはどれも
退廃的で男性を挑発しています。
私生活でも出会ってから6年間同棲生活をした
2人。

2人が残した写真はロンドンのザザビーズで
「ガラスの涙」という題名で2000万円で落札
されています。
まん・レイが取った白と黒の写真で1枚の値段
としてはこれが、市場最高額だったらしい。
藤田キキ
晩年はかなり哀れだったキキは50歳で死去。

すでに有名になっていたモンパルナスの画家
たちのうちでたった一人、藤田嗣治だけが
ティエスの墓地まで彼女の遺体に付き従いました。




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藤田 嗣治の最後の女君代とは?

藤田はこの時代に置いてさすが芸術家というか
何と5度の結婚をしている。
実に恋多き男なのだ。
最初は初の渡仏前に結婚した登美子で、渡仏後
やはりわずか1年で離婚。

そして2度目が最初のパリでの成功のきっかけと
なったフェルナンド・バレエ。

フェルナンドの不倫が原因で別れてお次が
リュシュー・バドゥ。

そしてまたしても夫人の不倫により離婚。

だけど全く懲りない藤田はまたしても
踊り子でモデルだったマドレーヌと旅に出る。

が、どうしたわけかその旅先で急死してしまう。
だが、まだ藤田は女を切らさない汗
マドレーヌの死後から半年後に、最後の女君代
結婚する。てかここまで長い・・・・
藤田君代
その君代さん何と藤田の25歳年下です。
この君代さんと最後まで連れ添うことに。

当たり前だけどね汗
その後安住の地としてやはり日本に居場所を
見いだせない藤田は妻の君代とともにフランス
に帰化。

カトリックの洗礼を受けて彼はレオナールと名乗る
ようになる。
その後多くの宗教画と礼拝堂の建設を手がける。

享年81才。亡骸はノートル=ダム・ド・ラ・ペノ礼拝堂に。
君代夫人とともに眠っている。享年98歳

藤田が50歳の時出会い30年連れそった。子供は居なかった
が藤田嗣治の死後の著作権を管理したのも彼女である。

まとめ

藤田 嗣治の生い立ちは明治のあの時代において裕福な医者の
子供。(ボンボンであった)
藤田嗣治にとってのキキは「寝室の裸婦キキ」同様
特別な女だった。
藤田 嗣治の5番目の嫁君代は25歳年下の藤田安住の女だった。

しかし120年前の明治の時代に裕福だったにしろ芸術に
真剣に取り組んで、そして何度裏切られても、裏切っても
恋をして、遠い他国で生きて名前を残した人がいたんだな~
と本気で尊敬出来る。

藤田 嗣治の「寝室の裸婦キキ」は藤田の人生そのもの。
同じ民族としてちょっと自慢な藤田 嗣治にちょっと夢中に
なりそうです。まずは映画いこかな(笑)




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