【バロン薩摩】希代の放蕩ぶりに驚愕!千代の存在と晩年は徳島に

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バロン薩摩アイキャッチー1

大富豪の中でも20世紀前の空前絶後の日本で世界に
希代の富豪としてその名をはせた男がバロン薩摩と
呼ばれた薩摩治郎八だ。

1900年の明治の時代に生まれてその時代の華やかな
パリでの生活で過去に例のない豪遊ぶりと、芸術家らの
パトロンとしてその名を広めた彼の千代という嫁の存在や
晩年の徳島での最期を追ってみよう。




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バロン薩摩

明治34年生まれの西暦1901年に東京日本橋の地で誕生。

薩摩治郎八は2代目薩摩治兵衛を父に、祖父には1代目
治兵衛で一代で極貧の近江商人から巨万の富を築いた
『木綿王』として財を成し『薩摩屋』の称号で豪商と
して名を遺す人物が祖父にいる。

初代治兵衛が巨万の富を築いて亡くなる頃誕生した
本名薩摩治郎八は幼少期より学校に馴染めず第一次
大戦終了後1920年秋19才でオックスフォード大学に
学ぶ理由でイギリスに留学。

その2年後にフランスに渡りそので知り合って見聞き
した社交界で車と女遊びに熱中した。

当時の貴族の称号が無かったにも関わらずその
あまりに豪胆な金使いから「東洋のロックフェラー」
「東洋の貴公子」「バロン薩摩」と呼ばれ名を馳せた。

バロン薩摩とは希代のパトロンだった

何故彼がこれほどまでに有名になったのか?

それは当時芸術の都として日本からフランスの渡っていた
画家への支援や日本人に限らず才能を認めた画家などへの
支援を惜しまなかったからだ。

そのそうそうたる顔ぶれは、藤田嗣治やジャンコクトー
レイモンラデゲ
らと交際しながら支援を惜しまず、
海老原喜之助、岡鹿之助、藤原義江らのパトロンとなった事が
今でも言い伝えられる名前の所以だと言われる。

バロン薩摩の放蕩ぶりが驚愕過ぎる

彼のフランス滞在時1920年から1930年は日本も
第一次大戦終了で好景気に沸いていた時期だ。

この時期日本の平均サラリーマンの月収が30円
だった時代に彼はフランスに送金してもらっていた
金が毎月1万円(当時のルートで3000万円)そして
足りなけらばいくらでも送金してもらう状態だった。

その潤滑過ぎる金でケタ違いの散財をした彼は
パリの高級住宅街の16区に豪華な住まいを整え
車はクライスラーの特注車に乗った。

その中でも最も彼の大きな功績として度肝を抜かれる
のが1929年の5月治郎八28歳の時パリ南部で建設した
パリ国際大学都市に日本館を建設する。

この建設費用の大半を治郎八が支援したこと。
そしてその金が当時の金で10億以上の金をつぎ込んだ
と言われている。

外観は日本の城を彷彿とする外観で地上7階地下1階
60室の客室を備えて、そこに当時のパリの寵児と
言われた画家藤田嗣治の壁画が2枚飾られていた。

またその日本館建設開館式も豪奢でパリ屈指の高級
ホテルリッツで名士300人を招待して大晩餐会を開催。

1晩で1億円以上の金を使ったと言われている。

この全ての散財で彼がパリ時代の10年で使用した
金は全てで600億円だと言われている。

まさに貴族でなくとも本物の貴族以上の豪胆な
金を散財したことっで伝説の男「バロン薩摩」
の称号の名に恥じる事の無い放蕩の限りを尽くした
男だった。




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バロン薩摩にとっての千代という女

治郎八は1926年大正15年に26歳の時一時日本に
帰国して千代と結婚する。

その後二人でフランスに渡仏。

相手は山田英夫伯爵の娘千代で彼女は
(松平容保の五男の娘)としていわば当時でいう
お姫様。
千代
出典:http://silvermoon2010.blog27.fc2.com/blog-entry-187.html
その容姿から藤田嗣治には「ドーリー」と呼ばれた。

そして当時としては珍しく日本人離れした容姿で
若く美貌も財力もある夫婦として社交界ではひと際
目立つ存在として注目された。

渡仏当時はふっくらとした裕福な日本女性特有の
女性だった千代が既に渡仏してフランス社交界の
花形として名を馳せていたバロン氏の指導により
ドレスの着こなし、美容、ダイエットを指導して
どんんどん洗練した女性に変化していったと言う。
千代
出典:http://blog.livedoor.jp/mukashi_no/archives/48603933.html

その類まれな美貌と若さと財力でパリっ子の注目を
集めた千代は当時のフランスファッション雑誌ミネルヴァ
の表紙を務めたり、エクセルシオールの夏のモード特集
などでもモデルとなる
治郎八共々華やかなパリの華と言われた
そうです。

だがその夫婦生活もそれほど長くは続かず千代は
1956年昭和31年に42才の若さで結核となり亡くなっている。

バロン薩摩の晩年とは

千代の死後(昭和31年)の終戦後日本に帰国。

帰国した時バロン薩摩は文字とおり無一文だったと言う。

フランスでの放蕩生活を支えてくれた実家の「薩摩屋」は
バロン薩摩の建設した「日本館」開館後の5カ月後の
NY株式市場の株の大暴落による世界恐慌の波にのまれて
1935年に崩壊。

一家の残した財産や土地も敗戦後の連合国軍による
農地改革などで全て没収され人手に渡り薩摩屋は没落。

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その後あらゆる人脈を使って作家としても活躍して
自身のパリでの社交界での生活や巴里会などにも参加
して暮らしを成り立たせていたとの事。

バロン薩摩の墓は徳島に眠る

最後の妻は浅草のストリップダンサーとして働く
秋月ひとみ(利子夫人)で二回り以上も年下と
再婚してパリから帰国後再婚。

帰国後3年の1959年(昭和34年)妻の故郷徳島での
祭りで阿波踊りを踊る最中に脳卒中となり昭和51年
1976年に享年75歳で脳卒中から17年後に死去している。

今も最期を過ごした妻の故郷の徳島にバロン薩摩の
墓があるとのこと。




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おわりに

それにしてもここまで調べて思った事、彼自身が稼いだ金を豪遊したならまだしも先祖が身を粉にして働いた(一代目祖父)をここまで見事に使い切った治郎八も凄いけど、送金した2代目の父親も凄い。一般人の感覚からしたらあり得ない。金持ち3代続かずとはよく言うが、この孫の治郎八を「薩摩屋」創設の祖父はどう思うのだろうか・・・あらゆる常識を凌駕している孫を誉めてくれるのかな~と思いつつ凄い日本人がいたものだ~



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