伊藤野枝の奔放に生き愛した大杉栄と子供達に死因は生き様そのもの

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その壮絶な死因を持って自らの短命でありながら
誰よりも自由にわがままに思うままに奔放に激しく
生き抜いた伊藤野枝。

伝説の生涯を振り返ると彼女にはいつの時も損得
など関係なく愛した男と、その男との間に誕生
した子供達がいた。

どうして彼女はそう生きざるを得なかったのか?

お互いがどうしようもなく惹かれあったであろう
思想家であり作家であり社会運動家であった大杉栄
という離れがたい男との出会いが全てを変えてしまった
のかもしれない。

伊藤野枝の波乱と愛に生きた人生を追ってみよう~

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目次

伊藤野枝プロフィール

氏名     伊藤野枝(いとう のえ)
生年月日   1895年1月21日
出身地    福岡県糸島群今宿村
没年     1923年9月16日(28歳)
没地     東京都東京市
思想     無政府主義
活動     夫人解放運動

伊藤野枝の奔放さは父親譲り?

父親の亀吉と母親のムメとの間に
元々海鮮物屋を生業とした問屋として
7人兄妹の三番目の長女として野枝が誕生。

だが伊藤家はその頃既に没落していた。

家業が没落した中、父親の亀吉は瓦職人となるが
プライドばかり高く放蕩癖も付きまともに仕事を
しなかったという。

そのしわ寄せは当然母親のムメが昼夜を問わず
7人の子供らを食べさせるため働き詰めの生活に。

そんな生活も限度があり3番目の野枝を
小学2年生の時口減らしのため叔母の
マツの家に預けられたという。

晩年野枝成人して母親のムネにこう言ったという。

『私は自分の子供を他人にやったりは絶対せんよ』

野枝が口減らしに出された事に不満を持ち
その後の人生を象徴するかのような短命な
生涯を生きる事になるとはこの時はまだ露にも
思わなかったでしょう。

時代背景からして口減らしなど珍しい時代で
なかったが、それでも母は野枝のこの言葉を
振り返り、里子に出した事を晩年後悔していた
と言われる。

伊藤野枝の思うままに愛して生きて~

中学卒業後は実家を支える為郵便局に
就職し短歌を雑誌に投稿する生活を送る。

本来なら女学校に進学希望した野枝は
閉鎖的な地元の生活より自由な匂いのする
東京への女学校へ進学を叔父の代準介
頼み込み上野の高等学校に入学する野枝。

そこでの教育は水を得た魚の如く勉強に打ち込み
野枝は卒業後親に決められた結婚の為地元に帰郷。

だがこの結婚に気が向かなかった野枝は
仮祝言まで済んでいた状態なので渋々相手の
末松家に入るもやはり我慢できず8日目に出走。

頼った先は上野女学校時代の講師
辻潤を便り再度東京の辻潤宅に詰めかける。

完全なる押しかけ女房だ。

この時生徒との恋愛関係を責められた
辻潤はアッサリと教師の職を辞し野枝との
結婚生活を選ぶ。

昼夜と言わず愛しあったと当時の妄想録に
あるように二人はむさぼり合うように愛欲生活
を惑溺したという。

当時の辻は20代半ばまで女を知らず野枝と
恋愛関係になるまでは模範的な青年でかなり
内気な性格っだったと言われている。

そこに飛び込んできたのが飛び切り
わがままで貪欲な九州女伊藤野枝だったのだ。

伊藤野枝の愛も自由も教養も~

ある意味野枝のいいなり状態の辻潤との
結婚生活で更なる自由を手に入れた野枝は
平塚らいてうらが集まる女性文学集団青鞜社
通い始める。

そこで出会った与謝野晶子や長谷川時雨、岡本かのこ
ら早々たるメンバーと出会い当然親交を深めるうちに
刺激を受けまるでスッポンジが水を吸うようにあらゆる
文学や当時の世相に対する彼女らの考えを吸収した。

そしてその手伝いを後押しされるように
自宅では旦那となった元教師の辻潤がそれを
サポート。

と言うかサポートせざる得ない状態のレベルに
外との世界とのつながりを持たない辻とは対照的に
野枝は積極的に何でも知りたがり吸収した。

そして自分の中の確たるモノとして女性解放運動家
の道も歩む事になる。

二人の結婚が本当に破局する前にも野枝は
木村荘太との「恋愛事件」を起こし新聞を賑わせている。

6年の結婚生活の中当然二人の間に子供にも
恵まれているが、野枝に必要な与えるもの全て
を吸いきった野枝にはもはや辻潤には何の魅力も
なかったのだろう~

長男に一(まこと)次男に流二(りゅうじ)
二人の息子にも恵まれるもその辻潤からの全てを
吸いきった野枝はつぎなる運命の出会いと巡りあう。

そして伊藤野枝は運命と本能が欲したモノを
諦める女ではなかった~

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伊藤野枝がとことん惚れた自由人大杉栄

6年間の辻潤との結婚生活を捨て
当時出会うべくして出会う事になる
大杉栄との道なき恋に迷わず突っ走る
野枝。

1914年4月辻潤と離婚。
当然野枝から別れを切りだした・・・

息子も旦那も全ての世間からの目も批判も
野枝には関係なかった。

彼女の生き方は単純明快!

『欲しいものは欲しい』

彼女はいつも自分が何を欲しているのか分かっていた。

その為にはどんな犠牲も払う事を厭わない。

必要とあらば全てを投げうってそこに人生を
賭ける~それが伊藤野枝の生き方だった。

現代でも少数派であれこんな女性は存在する
かもしれないがこれが100年前の世相を生きた
女性の生き様と思うと受けた衝撃は並大抵ではない。

大杉栄
出典:http://hal1.net/entry/1920-nen/

当時野枝にも辻潤と息子二人がいたが大杉栄にも
内妻の堀保子がいたが二人はこの年の秋には同棲
生活を始めている。

そしてこの大杉栄という人物もタダならぬ人物と
して今なお語られる人物だが、内妻の堀康子。

そして愛人関係の神近市子もいる中、伊藤野枝との
同棲生活をはじめた、まさに時代を生き急いだ男
としてあの当時の時代背景において『自由恋愛』
フリーセックスを堂々発していた人物だった。

この大杉栄とのここから最後までの生活が
野枝の全てであるが良く言えば豪放磊落
人物として世間にも周囲にも究極の人たらし
として語られる人物だった。

野枝は人生の最後までこの男大杉栄にとっての
新鮮な女で居られる事を意識して生きたと言われている。

伊藤野枝と愛した男の子供達

野枝がその28年という短い生涯の中で
誕生させた生命の数にも驚かされる。

辻潤との最初の6年間の結婚生活の中で
1913年9月20日辻一(まこと)

その後次男の流二(りゅうじ)が正確な生まれ年は定かではないが1916年に母親の
野枝は大杉栄の元に出走していることからも
少なくとも長男の一(まこと)が3歳当時だった
のでは~と思われる・・・

次男の流二は年子であっても2歳。

2歳年下であっても1歳の乳飲み子だった。

それでも振り切る野枝。

1916年の秋には大杉栄との同棲生活を開始
して翌年の1917年には長女魔子を出産。

当時の世間からの批判を受け悪魔の子(魔子)
と命名したとのこと・・・

1918年頃に次女のエマを(後に幸子に改名)
三女もエマ(後に笑子に改名)四女にルイズ
(後に留意子と改名)長男(栄との間の子)にネストル
(後に栄と改名)

大杉栄との子供を5人出産している。

1916年に辻潤と離別してから最後野枝と
大杉栄が死ぬ1923年までのわずか7年の
間に5人の子供を産み落とした野枝の生命力
が半端ない。

尋常では無い女性性と言うか・・・豪快と言うか・・・

正直お腹が空いている時期がほとんどなかった
はずです・・・

最強伝説伊藤野枝の子供は何と7人!

たったの28年の人生で7人もの子供を
この世に誕生させている。

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伊藤野枝の生き様は死因そのもの

1923年9月16日関東大震災から
16日目の荒れた焼け野原の東京で伊藤野枝と
その内縁の夫大杉栄、そして大杉の甥っ子橘宗一
らが憲兵に連れ去られ、その日のうちに撲殺された。

後に甘粕事件として語られている。

当時大杉栄はアナキストとして当時の大日本帝国
時代の日本においては最も危険な思想家として
敵視される存在だった。

時代にまぎれたドサクサまぎれの撲殺で野枝の
死体は井戸に投げ込まれていたという。

死因鑑定書によると実行犯の甘粕正彦らは
『苦しまずに死んだ』とされていたが肋骨が
何本も折れた状態で胸部の損傷からかなり激しい
暴行を受けて撲殺されたことが発覚している。

時代に翻弄されたんじゃない。

「自分の求めるまま自由に生きただけ~」

健在だったころ野枝はこう言っていたという

『どうせまともに畳の上では死ねれんに~』

まるでこの日を分かっていたかのように
こう語っていたという・・・

とっくに腹はくくっとるよ~と言わんばかりに

伊藤野枝太く短く自由に奔放に~

女性文学集団青鞜社に通い詰め知識の
全てを理解しようと周囲の女流作家らに
まぎれて勉学にいそしんでいた時代。

平塚らいてう
「原始、女性は実に太陽であつた」

と聞いた事があるであろう言葉を残した。

それとは対照的に伊藤野枝はこう言った。

『吹けよ、あれよ、風よ、嵐よ』

まるで自分のこの後迎え来るであろう短く
激しい生涯を真っ向から受け入れるぞと
言わんばかりの詩をうたっているのが野枝
らしい。

伊藤野枝が自らの元を去り「甘粕事件」によって
撲殺された事を知った当時の辻潤は文壇の雄に
なっている。

野枝が去った後、抜け殻のようになって5年程
酒におぼれ翻弄された辻潤はこう語っている。

野枝さんのような天才が、僕のような男と同棲して、その天分を
充分に延ばすことの出来ないのははなはだケシカランというような
世論がいつの間にか僕等の周囲に出来あがっていた。

野枝さんは、メキメキ成長して来た。

僕とわかれるべき雰囲気が充分かたち造られていたのだ。
そこへ、大杉君が現われて来た。

一代の風雲児が現われて来た。

とても耐ったものではない。

辻潤:引用

良妻賢母なんかクソ喰らえ!

やりたいことをやりたい時に
自由に生きるだけ!

今から100年も前に同じ日本人として
短くもぶっとい人生を誰にも負けないくらい
自由に奔放に生きた女。

それが伊藤野枝という女~
後は野となれ山となれ~と恐らく何も悔いる
事はなかったのかもしれない。

おわりに

思い込んだらまっしぐらな猪突猛進を本能のままにド直球に生きてきた伊藤野枝。そして100年前にも関わらずそれを同化するがの如く受け入れる男、大杉栄と出会うべくして出会って愛して子供を産み女として母として自ら嵐の中に身を投じていった伊藤野枝の人生は悪くなかったと思えるのは私だけではないはず。誰にも真似できない生き方をあの最後の撲殺があってこそ伊藤野枝と大杉栄の半生は完結したのだろう~と思えてしまうのだから凄いとしか言いようがない。



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