与謝野晶子代表作みだれ髪は鉄幹と不倫の詩で子供12人に弟は戦死?

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与謝野晶子アイキャッチ

華麗なる一族とその家系図の元祖となっている
歌人として今に語り継がれる与謝野晶子。

今に続く孫や玄孫孫は元より代表作と言われる
みだれ髪が夫の与謝野鉄幹との不倫を歌った詩
だと言われる真相と子供や弟の戦死の意味やどんな
生涯を送ったのか追ってみよう。




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目次

与謝野晶子プロフィール

与謝野晶子(よさの あきこ)
生年月日(明治11年)1878年12月7日
本名 与謝野志よう(よさの しよう)
出身地  堺県和泉国第一大区甲斐町(現大阪府堺市堺区)
死没  1942年5月29日(63歳)
最終学歴 堺市立堺女学校技芸科
職業   歌人 作家
ジャンル 短歌

与謝野晶子と夫の鉄幹とは不倫関係だった

大阪堺市で老舗和菓子店の3女として誕生した
彼女は、20歳の頃から家業の『駿河屋』の店番を
しながら和歌の投稿を始める。

そんな折、1900年に浜寺公園の旅館で行われた
歌会で当時既に歌人として名を知られていた
与謝野鉄幹と出会う。
与謝野鉄幹
出典:http://www.sakai-rishonomori.com/rikyu_akiko/yosano_akiko/

恐らくは憧れの存在だった鉄幹と趣味の和歌を通して
知り合い、彼女の和歌の才能を認めて後押ししてくれる
鉄幹と二人は直ぐに息投合。

ただ当時から相当な女好きで有名だった鉄幹は既に2人目で
ある妻や子供もいる既婚者だった。

だが、この和歌を通しての2人の交流が晶子は、憧れの歌人
だった鉄幹の後押しと力添えと異性としての魅力に惹かれ、
鉄幹もまた若い晶子の才能に魅力を感じ結局、鉄幹の方が
妻子を捨てて離婚を決意。

鉄幹創立の新詩社の機関紙『明星』に晶子の短歌を発表
し始める。

この翌年晶子も大阪から東京に上京。

与謝野晶子代表作はみだれ髪?

この後、鉄幹の『明星』で実力を付けた晶子は
1901年(明治34年)8月15日、東京新詩社と
伊藤文友館の共版として初の処女作とななる
『みだれ髪』を発表。

そしてこの『みだれ髪』発表直後に二人は結婚。

みだれ髪
出典:http://norip-009.at.webry.info/201306/article_1.html
激情の暴走作家とも言われたらしいです・・・

略奪婚を見事成就させた歌としても有名なのです。

今よりも、もっと、もっと女性の貞操観念や男尊女卑
が酷かった時代に、周囲の反対を押し切り、既婚者
であった鉄幹に走り家を飛び出した晶子が想い綴った
歌こそが『みだれ髪』だった~

折角なので一つそれを証明するリアルな歌をご紹介~

「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」
(熱くほてった肌に触れず人生を説くばかりで寂しいでしょう)

「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」
(熱くほてった肌に触れず人生を説くばかりで寂しいでしょう)

「みだれ髪を京の島田にかへし朝ふしていませの君ゆりおこす」
(みだれ髪を綺麗に結いなおして朝寝するあなたを揺り起こす)

「春みじかし何に不滅の命ぞとちからある乳を手にさぐらせぬ」
(春は短く命に限りがあるからと弾ける乳房に手を導く)
出典:chiebukuro.yahoo

成る程の内容・・・もの凄いリアリティー・・・

言っとくけど明治ですので、明治の自由人与謝野晶子が
完全に浮世離れしています・・・・だって代表作だしねW

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だってこのみだれ髪をプロデュースしたのが鉄幹だから・・・
そして、そんな晶子を受け入れる鉄幹・・・

日本人社会の義務教育で必ず登場する歌人
与謝野晶子と与謝野鉄幹の秘められた秘話
学校では、この2人の略奪婚までは教えて
くれなかった・・・(当然・・汗)

そしてこの代表作こそこの明治34年と言う閉塞された
時代に置いて大胆な女性の官能をおおらかに歌った詩
だとして当時は相当な賛否両論の的となったと言われている。




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与謝野晶子と鉄幹の子供12人に驚愕W

この時代に超劇的大恋愛とも言える不倫略奪婚
成就させた二人は、相当に相性が良かったようで
この後何と驚愕の子供12人に恵まれる。

子供

内1人だけ生後2日で亡くなったいるが・・・

それにしたって12人。6女6男だったそう・・・
イヤ、11人。

生物学的にも超絶優秀なこの2人の略奪婚は
かなり意味があった運命の出会いだったのかも
しれません・・・

てか、鉄幹氏は前妻にも子供がいました。汗
前妻(元生徒の嫁)との間に与謝野萃(あつむ)
にも恵まれている。

てか、もっと言えば最初の嫁浅田信子との間にも
女児が誕生するも生後死亡・・・

凄すぎる与謝野鉄幹の繁殖率が半端じゃないです。汗
62年の生涯で14人誕生の2人生後死亡。

晶子は結婚後その人気を鉄幹と入れ替わるような
活躍を見せる中鉄幹は長らく不遇の時代を過ごす事
になる。

だがそんな鉄幹も彼女が働き出版社に金を前借する
などして家族を守り切り盛りしていった。

そして1940年の61歳で脳出血で右半身不随となり
1942年1月4日に意識不明、同年5月に63年の生涯を
終える。

与謝野馨は晶子の次男の子供で晶子が60歳の
時誕生。幼過ぎて全く記憶にないらしいです。

与謝野晶子の弟は戦死?

与謝野晶子は3女として誕生したものの
少なくとも上に兄1人、下に弟1人がいた
事も確認が出来る。

その弟に日露戦争で生き残った弟宋七が
いたと言われている。

日露戦争が起きて7カ月後の1904年9月に発行した
『明星』で歌ったこの歌こそが当時の世論で社会的
波紋を呼んだそうだ。

「旅順口包囲軍の中に在る弟を嘆きて」と副題し、

『君死にたまふことなかれ~』

問題とされたのが、第三連のこの部分らしい~

弟
出典:http://yayoigaoka-seminar.com/juniorschool/syakai/rekisi/75nitiro/yosano.html

弟よ、死なないで下さい。 天皇陛下は戦争にご自分
は出撃なさらずに互いに人の血を流し「獣の道」に
死ねなどとは、それが人の名誉などとお心の深いお方だから        
そもそもそんなことをお思いになるでしょうか~

この詩の発表に置いて、当時の国家主義や皇室中心主義
を唱える人物、桂月にその歌の詩を抜粋して“世を害するは、実にかゝる思想なり” と非難。

 論争の端を開いたのである。非難する。

これに反論するように晶子も12月号の明星で
「無事で帰れ, 気を附けよ, 万歳」と申し候は,
 やがて 私のつたなき歌の 「君死に給ふこと勿れ」 

と申すことにて候はずや。

天皇について指摘すつつもこれは明らかに当時の
『政府批判』であると捉える市民が多く彼女を庇護する
声が多かったそうだ。

とは言え、彼女の当時の世相を感じる歌や詩が
逐一話題になった事を考えるとその影響力が大きかった
事が伺いしれるエピソードでもあると言えるだろう。

おわりに

歌人として自身の学問をあの時代に生きて追及し、そして同時にタブーっだった略奪婚さえ成就させた与謝野晶子の情熱的で生命力に溢れた生き様は今もなお、その家系に引き継がれているだろう~子孫となる与謝野信氏の活躍含め与謝野晶子の今でも通用する力強い生き方は決して無視出来ない現代人にも充分得る所のある生き方だと言えるだろう~そう思うと何時でも時代のせいだなんて言い訳は人生において出来ないのだと気がつくばかりである。




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