
2000年全般で見ない日が無いくらいテレビでの露出が多かったタレントとしても、占術家としてもその言動力にも定評のあった細木数子さん(78)。
2008年にテレビからお充電期間として一端テレビ界から消えた細木数子。
彼女がテレビ出演に積極的に出演しなくとも、本業とする六星占術家としての活動も活発でそちらに専念されている。
現在ではメディアへの露出も激減した細木数子だがこれまでテレビには見せなかった彼女の過去を追ってみよう。
目次
細木数子プロフィール
細木数子(ほそき かずこ)
生年月日1938年4月4日(78歳)
出身 東京都渋谷区
細木数子の父
細木之伴(ほそき ゆきとも)
生年月日 明治8年1875年~昭和20年1945年2月
70歳没
民政党院外団の壮士として活躍した彼の元には大野伴睦や、松葉会会長なども出入りした事から
太平洋戦争開始と時期を同じく政治活動から身を引いてカフェ「ロマンスクラブ」を開店。
過去に4度も名を戒名したと言われており、昔は元恵と言う名を名乗っていたと言われている。
子供は生涯に3男5女
細木の何番目の兄かは分からないが腹違いの兄、小野利助によると、細木数子は2番ん目の妻との間の養女だったと言う。(あくまで戸籍上は)
細木数子の母は売春宿経営者だった
母は『みつ』之伴には3番目の妻(戸籍上は2番目)どうも2番目の正妻との間に子供が居なかった為に出来たみつとの間の子供は(細木数子ら含む兄妹も)
今で言うところの愛人の子供と言う事だと思う。
細木数子が満7歳で病死した父之伴氏。
父亡き後に店の名を「娘茶屋」に変え母みつらと営業するも、娘茶屋は当時から公然とした売春の青線化しており、細木数子らも1951年昭和26年当時店で接客していたと言う。
何と当時中学1年生から、だ・・・
どころか、その年齢から当時あった渋谷百軒店の「娘茶屋」まで渋谷道元坂で夜10時には決まって客引きまで行っていたとも・・・
「娘茶屋」は女給常時5~6人待機しており、そこに客引きした客を飲ませて一杯やりながら自主交渉で隣に作った連れ込み旅館『筑波』に交渉成立と共に客と連れ出すというシステムだ。
出典:http://laughy.jp/1423558833206100567
あの言語同断なモノ言いの「あんた地獄へ落ちるわよ」の細木数子様の紛れもない戦後の混沌とした日本であったまさに黒歴史です。
この時代があってこその細木数子の人格形成がり立ったのでしょう。
細木数子の兄妹もほとんどヤクザ
父親にも暴力団との幅広い交流関係があった事は先にも述べましたが、結局、青線経営を行っていた母親にも当然その関係はあったのでしょう。
一説によると、姉の一人は暴力団幹部の妻。
弟には細木久慶。千葉県議員を恐喝で有罪判決。
さらにJBAの会長時代にパソコンを使ったマルチ詐欺事件を起こし起訴されています。
2006年1月27日にも詐欺容疑で逮捕。
暴力団とは言い切れませんが、結構そっち方面の方にしか思えません。
細木数子の黒歴史もヤバすぎる
だけど、やっぱり兄妹の中でも一番の出世頭は細木数子が一番黒歴史を持ってそうです。
第一が「娘茶屋」での中学1年生からの店番で手練手管が身についたのでしょう。
16歳でミス渋谷に選べれた当時の数子はかなり器量も、良かったのだと想像できます。
1955年東京駅の高架下で「ポニー」の名でスタンドコーヒー店をオープン。当時たった17歳でこの店を持つ。
成徳女子高等学校時代に宝塚音楽学校に合格するもここを蹴って高校3年で成徳女子も中退し、水商売にどっぷりと浸かっていく事となりまうす。
この時代の事を20年程前に爆弾発言してます。
(娘茶屋)か(ポニー)を回想録として発言した数子氏の強烈発言がこれです。
『売春宿をやってたの。ヒロポン打ったりして女の子逃がさないように』
何と関西テレビ「ワイドYOU」で管理売春をしていた事を生テレビで豪語したとの事。
当然この時期、太平洋戦争の始まる1941年辺りから戦後の1950年までは日本でも合法販売されていた時期です。
出典:http://face5.blog.fc2.com/blog-entry-612.html?sp
それに、当時のテレビ出演時期にもはや40年以上前であった事から時効ではありましたが・・
この後の薬物規制の流れを考えたら、売春もヒロポンも当然御法度。相当スタッフも驚いたでしょう。
話は戻って、
ポニー開店もわずか半年で店を売却。
この金で新橋にクラブ「潤」をオープン。この潤も翌年売却。
1958年二十歳で銀座にクラブ「かずさ」をオープン。
ここまでは確かに凄い。十代から飲食店を手掛けて少しづつ?沢山かな?利益を出しては、店の規模と場所を拡大。
20歳で銀座クラブで店を持つなんて相当なやり手なのは間違いありません。
まぁ相当色んな手を使ったにしてもね・・・
細木数子は島倉千代子を骨の髄まで~
そして悪行の数々は書ききれませんが、目だったところではやはり島倉千代子の借金肩代わりでしょう。
とにかく信じれれないレベルで男を見る目のなかった島倉千代子。
最初の旦那の阪神の強打者だった藤本勝巳。この元旦那が作った借金が最初8000万円。
離婚協議で散々揉めた彼女に目を付けたのが目の怪我が元で知り合った、眼科医の守谷。
この男がまた酷い男だった、あまりに酷いので割愛するが、かれこれ、前旦那とこの守谷との連帯保証人となった事で膨れ上がった借金が最後13億とも15億とも言われています。
この当時1977年。
これを処理したのが当時クラブ“艶歌を経営して、当時ヤクザの女でもあった細木数子だった。
77年3月、細木は債権者を、自分が経営するクラブ“艶歌”に集めた。
「テーブル上に3億円を置いて、“あんたはいくら貸したんだ”“実際に借りたカネより膨らんでいるじゃないか”と詰め寄り、実際に借りた金なら払えると言って、手形とはいえ13億円にまで膨らんでいた借金を3億円でチャラにしたんです。こうして千代子の債権者は細木になり、興行権も彼女に移ったのです」
http://news.ameba.jp/20160224-139/引用
当時細木は新宿を小金井一家の二率会の堀尾会長の夫人だったと言われる。
出典:http://laughy.jp/1421976308700123717
当時この様子は記者会見でも細木数子と島倉千代子との会見で知られる。
だがこれで終わらないのが細木が女ヤクザと言われた所以かもしれません。
1970年代後半、大変人気のあった歌手島倉千代子。
この借金肩代わりの変わりに細木が行った愚行こそが女ヤクザと言われた所以だと言います。
「島倉千代子の興行権」を全て手に入れた細木は直ぐに芸能プロダクション設立。
興行権を手に入れた細木は、写真集、キャバレー回りを始めレコード収入から舞台収入など含め相当な稼ぎだったと言います。
でも高度経済成長の真っ只中だった日本で売れっ子歌手が、馬車馬の如く働いても働いても借金は減るところが増えていったと言います。
この当時の借金は報道によって違うが、06年に本として出版されこれがきっかけで芸能界から身を引く形となった細木数子と言われるだけに、他の報道よりもかなり信憑性は高いかもしれません。
出典:http://wishcomestrue.ti-da.net/e5581319.html
確かにまだまだ元気そうです・・・
溝口敦氏の著作「細木数子 魔女の履歴書」(講談社)にはこう記されています。
(前略)細木自身は島倉の負債額について、二億四〇〇〇万円、四億三〇〇〇万円、一六億円、一三億円、十二億円と、そのときどきで言い分を変えている。(中略)島倉に聞こうにも、彼女は細木のロボット同然で、負債額がいくらか把握していない〉asagei引用
必死で働けば1年で返済出来たと言われる金額を、ヤクザから守ってくれた細木を「細木のママ」と慕って頼った島倉千代子を、とことんまでしゃぶりつくしたのが細木数子の裏の顔だったのだ。
最後は見かねたレコード会社、日本コロンビアが島倉の興行権を買い戻してくれ、ようやく細木の手から離れる事が出来たが何とコロンビアレコードからもちゃっかり、トレードマネーとして2億円払わせたと言う。
これが細木数子が暴力団と組んで行った過去の悪行。
凄まじい悪行の数々をして現在の彼女が確立出来たと思われます。
まさに彼女がヤクザそのものと言われる所以。
過去に名前こそ出さぬものの、あの温厚そのものな島倉千代子が、自身の履歴本発表パーティーで
『法律が許してくれるならばこの手で刺したい』と名前こそ明かさなかったものの、細木数子を指した言葉である事は明らかだったと言う。
細木数子と安岡正篤の結婚契約書
1983年時、島倉千代子との関係が切れた頃、彼女は銀座クラブのママとして当時45歳。
女盛りで銀座の夜の世界でも、そして今振り返ると暴力団の女としても、使える者は何でも使って、その実力をどんどんと身に付けていった時期のようです。
出典:http://online.chichi.co.jp/category/BOOK11/
この時期に自身の店で政界にも絶大な力を持ったとされる陽明学者の安岡正篤(やすおか まさひろ)氏、当時85歳と知り合う。
健康を気遣って酒を飲ませまいとした親族に隠れて、飲ませる形で細木と安岡は自身の赤坂の(島倉千代子)から取り上げたマンションで何度が逢引。
この当時安岡は既に認知の症状が出ていたと言われる。
その状態を逆手にとって安岡との結婚契約書を取り交わす。
それをもとに安岡の家族が大反対する中婚姻届けを受理されるが、結局、その後安岡はすぐに他界。
安岡が亡くなった初七日に調停により婚姻無効が認められ籍を抜く事となる。
出典:http://www.logsoku.com/r/2ch.net/livejupiter/1388683970/
これくらいの時かな?
当時45歳の細木と安岡正篤(85歳)何が目あてって、ご察しの通りだと思います・・・
ま、お金だけでは当然ないですが、この方83年12月に亡くなり、翌年1月の青山葬儀所で本葬が執り行われたが、昭和天皇からは祭染料を、葬儀委員長が岸信介元総理大臣が務めています。
彼女が狙うだけの大人物だった事は間違いないでしょう。
それにしても何とも大胆不敵なまるで、映画の中の悪女を地でいったような人生。
ちなみに彼女があたかも自ら創作したように、作り出した“六星占術”これは 神煕玲の六大天冲殺からの盗作であると溝口敦著『魔女の履歴書』にて明かされている
wikipedia引用
おわりに
めちゃくちゃ長々になってしまいました・・・最後まで読んで下さった方ありがとうございます。だけど彼女の半生を描きだすと、これでも語りつくせない位のハチャメチャな悪評の数々なんです。
敗戦後の日本のドサクサだった時代に生き延びるためにハッタリと色香を武器にここまでのし上がった細木数子という女性はこの時代が作り育てた寵児とも言えるのではないでしょうか?
野心に満ちた波乱の人生。現在人生も大終盤を迎えて後悔の文字はやはり無いのでしょうか?ちょっと聞いてみたい気もしますね~
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復縁祈願の駈け込み寺
法華経寺・神宮司龍峰です。
細木数子の伝記
溝口敦の『魔女の履歴書』読みました。
驚きました。
本当の話なら
島倉千代子は全くお気の毒です。
細木数子さんはお元気なのですか。
最近はテレビで観なくなりました。
神宮司龍峰