張本勲手の火傷と在日2世への差別や生い立ち彼を支えた家族とは

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張本アイキャッチー

球界のご意見番として「サンデーモーニング」
でのスポーツコナーが名物の張本勲さん。

言いたいことをズバッと言って
”喝”を入れる張本さんを長年みて
ご存じの方は多いだろう。

だが彼が残したプロ野球界の記録は日本の
プロ野球史上唯一の3000本安打だ。

ハンパではないその成績に隠された彼の
これまでの人生。

生い立ちや初めて知った手の火傷の理由に
是非これは張本勲というご意見番とは違い
一人の男の人生として追ってみたいと思い
調べた内容です。

壮絶な彼の生きざまや家族への思いも~
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張本勲の生い立ち

在日2世として日本で生まれたのは
1940年6月19日(75歳)

韓国名 張 勲 (チャン・フン、장훈)

韓国慶尚南道昌寧郡大合面出身。
当時日本の植民地時代であった韓国は
土地から何から全てを取られ、もう食べ
られないと言う事から日本領であった
朝鮮から海を渡る。

先に海を渡り広島の地で古道具屋を始めて
いた父の弟と手紙での連絡を取り後を追い
広島に行きついたそうだ。

母は身重のまま3人の勲氏の兄妹の手を
引き勲氏は広島の地で四人兄弟の末っ子として
生まれる。
ハリー生い立ち
一家は六畳一間のトタン屋根の
バラックに身を寄せながら暮らす。

終戦後、父親が朝鮮に(祖国)に帰る準備
として先に帰国。
生活基盤を整えてから家族を呼び寄せる予定
だった。

が、不幸にも祖国で魚の骨が咽に刺さり急死。
その知らせを受け帰国しようものの当時の交通事情
でヤミ船が下関沖で転覆した事件などが相次ぎ母親
が子供の身を案じ帰国を諦める。
ハリー生い立ち
凄い写真でしょう~当時の右から長島氏、王氏、張本氏

女で一人で日本語の読み書きも全く出来なかった
母は、それでも子供4人の生活の為に闇市で牛や豚の
臓物を仕入れて自宅で大工や工員相手にホルモン焼き屋を
始める。

張本勲の手の火傷と在日2世としての差別

勲氏がわずか4歳の時土手で焚き火をしてサツマイモが
焼るのを待ったた時、後ろから、トラックが突っ込んで
来た。

そのまま勲氏だけ火の中に突き飛ばされる。
胸から顔から真っ赤になり小指と薬指は燃えてしまう
大やけどで残った指も二本、今でもくっついたままの
状態だという。
ハリー手
右手は小指がなく、中指は半分、薬指も三分の一
ほどしかありません。親指と人さし指は、内側に
曲がったままです。

最初の差別
トラックの運転手は自宅までは連れて行ってくれた
らしいがその後姿をくらます。そうです、逃げたのです。

その卑怯さと当時の4歳の勲氏の酷い火傷に
叔父が、せめて慰謝料だけでも貰いたいと
警察に駆け込みます。

だがそこで言われた言葉が
『そんなもん分からん、お前ら朝鮮人だろう、帰れと』
言われたそうです。

実の父とは違いとてもおとなしかったという
その叔父さんは震えながら泣いてあのときは本当に
悔しかったと、勲氏が中学位に話してくれたそうです。

その時の手の火傷は、まともな手当も受けられ
なかったのも原因でしょう。小学校5年生で当時
身体も大きかった彼は社会人が集まる趣味の野球
チームに誘われ参加。

ハリー手
だが、右手の火傷が酷く鷲掴みにしかボールを
持てず、変化球などに対応出来なかった事から
小学5年生で利き手を変える大改造をする。

4歳で負った火傷で小学5年と言えば11~12歳。
7年から8年経っても自由が効かず利き手を変える
と言う事はいかほどに酷い火傷だったのか・・・・

時代とか差別だなどとそんな言葉では言い表せない
理不尽さを通り越した怒りを覚えます。
ハリー手
当時の事を
「母が半狂乱のように泣き叫んで、病院に連れていって
くれましたが、だめでした。」

だがそれだけの大やけどを負いながらあれだけの
活躍をした張本氏。

プロ野球入団の1年目のオフに広島に帰って食事
した時母を前に1度だけ、
ハリー手
「右手が普通じゃったら、もっと打てたんじゃが」
と言った。それを聞いた母が泣き崩れて『私のせいよ
あなたをもっとちゃんと見てあげていれば・・・・』


これがきっかけで右手をほとんど見せる事はなかった
といいます。

数少なく見せた人の中に元巨人の川上(哲治)さんがいる。

その手を見て「うぉー」とうなって、「いやー、そんな手でー」
といったまま絶句し、涙ぐんだという。

引退して程なく解説者としての仕事をした
NHKの解説者にもその手を見せた時に言った
言葉が忘れられません。

「よくもそんな手で、あれだけの記録を・・・」
涙したという。
ハリー手
いかにして彼がそんな境遇にしても負けずに
腐らずに言い分けせずに野球と向き合ってきたか~

人生に立ち向かってきたか~を思わされる
エピソードだ。

同時にあの時代の理不尽な差別にも・・・
当時の張本氏もしかりだがその母の胸中を
考えただけで胸が締め付けられて泣けてくる。




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張本勲を支えた家族への思い

幼い頃に祖国に帰り亡くなった父は酒癖が
悪く、すぐに手はあげるわ、博打には手は
出すわで母はずいぶん苦労したという。

そのせいか今でも張本氏は博打が大嫌いだとも。

だがそんな旦那でも当時まだ幼かった4人の子供
を抱え字も読めない、言葉も離せない異国の地で
どれだけ途方にくれたことか、想像を絶する大変さ
だっただろう。

当時の母親は朝から晩まで働き詰めで張本氏が
眠った姿を見たことが無かった。
と言う位だ。

商売用の肉は広島駅近くのヤミ市に仕入れに
いくのだが、わずかなバス代を惜しみ、炎天下
の日も、雪が降る寒い冬も下駄ばきで1時間かけて
歩いて買い出しにいったという。


母は日本の文字が分からないので、肉や酒の
注文を受けると墨で壁に棒で印を付けて数字を
記録して、それでお勘定を正確にもらっていた。
ハリー生い立ち

その姿を見て、必ずこのトタン屋根の家から
連れだす。2回建ての家にお袋を住ませたい。

と何度も子供心に思ったと言う。

そして必ずヤミ市の帰りには牛肉の屑肉(くずにく)
も買い、朝に晩に味噌汁に入れてくれた。

「おふくろが漬けたキムチとこの味噌汁さえあれば
何杯でもご飯が食べられたものだ。」
と当時を
語っている。

そして彼を支えた兄の存在も大きい。
家族の生活を考えて中学卒業後にはタクシーに
乗って流しの仕事をして支えた兄。

その兄が当時大阪の名門浪商高校で野球を
やらせるために苦しい家計の中から大阪に
送り出して当時タクシーの稼ぎが1ヵ月
1万8千円だった時に、そこから1万円送って
くれたという。

当時勲氏が十七歳で兄が二十七歳だったという。
ハリー家族
その兄や家族の気持ちに絶対答えるんだと
どんな厳しい練習にも耐えたという。

最初契約した東映フライヤーズ(1959年)に
契約金200万円貰った勲氏は家に帰り、上京費用
の10万円だけ取り残りはすべて兄に渡したという。

「三年間本当にお世話になりました、これで家を建てて下さい」

そのお金で兄は市内に家を建てたそうです。

今考えたらちっぽけな家だと思うが当時の
トタン屋根が住みかだった自分には御殿の
ように思えたと言った。
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まとめ

戦後の混乱の中在日2世としての言われなき差別を受けながらも
家族と共に懸命に人生を力強く切り開いていった張本勲さん。
決して人ごとではない今回のこの話を胸にもう一度戦争がきっかけ
で引き起こした、あってはならない差別。このことをもう一度考える
必要があると思いました。ますますこれからの活躍といつまでもお元気な
姿で楽しませてほしいですね。




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