
メキシコを代表す画家として知られるフリーダカーロ。
彼女の残した作品の中でも最も知られて有名なのは彼女の
自画像だ。
自画像など決して珍しくもないが、彼女の自画像は他とは
異なる異色の迫力と彼女の波乱と苦悩に満ちた人生そのもの
の象徴として今も尚語り継がれている。
そして彼女の人生に愛や悲しみや絶望を与えた男ディエゴ
との結婚生活もあった。
今も語り継がれるフリーダカーロの生涯を追ってみよう~
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目次
フリーダ・カーロプロフィール
氏名 マグダレーナ・カルメン・
フリーダ・カーロ・イ・カルデロン
生年月日 1907年7月6日
国籍 メキシコ
死没 1954年7月13日(47歳)
フリーダカーロ波乱に満ちた生涯の始まり
メキシコで最初の写真家として認められた父ギリェルモと
母マティルデとの間に誕生したフリーダは6歳の時に
急性灰白髄炎にかかり、9カ月間寝たきりになる。
出典:http://kousin242.sakura.ne.jp/wordpress/aaa/
この影響で右脚から踝にかけて成長が止まりやせ細り
それらを気にしてズボンやロングスカートを好んで
着用していたフリーダ。
そんなフリーダを連れ出すようにハイキングやカメラの
手ほどきをしては水彩画を手ほどきして楽しみとして
教えた父ギリェルモの影響を多大に受けて彼女は成長して
いつしか画家を目指すようになる。
当時メキシコ最難関と言われた国立予科高等学校に
生徒2000人中女性はたったの35人。
その中にフリーダは入学していたのです。
出典:http://buzzap.jp/news/20151026-frida-kahlo-cross-dressing/
1924年のフリーダ17歳の事故に合う前のカッコいい男装姿!
家族写真の一番左側がフリーダです。
そんな華やかな人生の始まりに当時ボウイフレンドだった
アレハンドロと乗るバスでの通学途中で大事故に合うのです。
バス事故は路面電車とフリーダが通学にノルバスとの正面
衝突事故で多数の死者が出る大事故だった。
1925年9月17日18歳の少女だったフリーダカーロ。
彼女の怪我は信じられないレベルの大けがで一命は
留めたものの、鉄パイプが彼女の身体を貫通していた。
肩、鎖骨、肋骨、脊髄から骨盤左足に右足首は
脱臼してまさに瀕死の状態。
17ヵ所もの骨折だったそうです。
亡くなるまでに28個ものコルセットや足の壊死など
から次々と手術を余技なくされて、そして最後まで
耐えがたい痛みとの闘いだった。
あまりに壮絶なその痛みとの闘いは死後の理由が
肺炎だったにも関わらず自殺説まで流れた程だと言われる。
フリーダカーロリアル過ぎる自画像が生きた証
その短い生涯で自身の自画像を200点残したフリーダが
残した自画像は彼女の波乱と苦痛に満ちた人生そのもの
を曝け出すかの如くリアルで生々しい画像だった事でも
今なお語り継がれています。
出典:http://blog.livedoor.jp/chachachiako/archives/35952782.html
18歳の時のバスの大事故で生涯をその後遺症に苦しめ
られた彼女はその影響から子供を産めない身体としても
苦しみ、そしてキャンパスの中に全てを曝け出して描き
続けたのです。
時に残酷で辛辣過ぎる彼女の絵からは人生の苦しみ
切実に願っても叶わなかった絶望が慟哭の如く絵から
聞こえてくるような表現力を持って描かれています。
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フリーダにはディエゴが全てだった
大事故にあったバスに同乗していたアレハンドロは
フリーダの元を事故後去るようにヨーロッパへ留学。
彼女は失意の中心のバランスを取る為に絵を書き
始めましたが21歳当時に知り合ったのが当時既に
メキシコを代表する壁画家だったディエゴリベラ
だったのです。
ディエゴの製作現場に通う中で二人は互いい惹かれ
合い1年の歳月を経て年齢差をモノともせず結婚。
出典:ameblo.jp/hawakko/entry-11972486968.html
若く美しいフリーダに中年のでっぷりとした腹のディエゴの結婚を
フリーダの家族は歓迎しませんでした・・・・
ディエゴ42歳フリーダ22歳でした。
ただただディエゴを愛するフリーダは愛する夫
ディエゴとの間に母親として我が子を抱くことを
望みましたが、彼女の身体がそれを許しませんでした。
出典:numero.jp/trip-30/
彼女の骨盤は事故の影響でその出産を許容する
身体ではなかったのです。
そんな現実を叩きつけられて悲しみと失意の中
キャンパスに自身と産まれるはずであった我が子
の絵をリアルなまでに描きつけたフリーダ。
そんなフリーダに追い打ちをかけるようにディエゴは
アトリエで何人もの女性と情事を重ねたと言います。
出典:http://d.hatena.ne.jp/ryuuzanshi/20130525/p1
見て見ぬふりをするフリーダ。
そんな二重の苦しみの中更なる悲劇が彼女を襲います。
何と愛するディエゴはフリーダの実の妹とも関係を
持っていたのです。
結婚五年目にして知った愛してやまない男と信頼しきって
いた妹との情事を知ったフリーダの心情は測り知れない
絶望と悲しみに打ちひしがれたに違いありません。
1934年に描かれた「ちょっとした刺し傷」は
ディエゴと妹との情事後にあった実際に起きた殺人事件
をモチーフにして描かれたと言われます。
当時のディエゴからしたらフリーダの妹とは言え
何人もいる情事の相手に過ぎなかった。
でもフリーダの心はどうでしょう?
ディエゴとの関係の虚しさを「思い出」として絵に
残したフリーダ。
そんなディエゴは容赦なく奔放に情事にふける為に
1939年12月フリーダとの結婚生活に終止符を打つべく離婚を
申し出します。
彼女は後にこう言っています。
出典:plginrt-project.com/adb/?p=24348
絵の題名は小さな鹿(1946)
『私は生涯に2度の大きな事故にあった。ひとつは交通事故
もうひとつはディエゴとの結婚・・・・』
こう言い残しディエゴの望むまま離婚に応じた彼女は
寂しさを紛らわす為トロッキーや芸術家のイサムノグチ
写真家のニコラスムライらと浮世を流します。
そんな中でも刻一刻と彼女の身体は壊れて行った。
離婚後交通事故の後遺症の悪化により入退院を繰り返す
フリーダの噂を切ってディエゴが病院に駆け付けます。
そして離婚から1年後二人はまたも1940年再婚。
それはフリーダからも申し入れだったと言います。
フリーダにとっては
ディエゴに会えたことが何よりの薬だったのです。
それ程までに愛したディエゴは傷付け合いながらも
離れがたい存在として離れられない存在だったのです。
再婚に至りフリーダがディエゴに出した条件が
二人の特殊な関係を物語っています。
★作品の売り上げで自立して家系の半分を出すこと。
★性的関係を持たない事。
これほどの条件を出してまでディエゴを最後まで求め続けた
フリーダ。
自立した関係となっても尚お互いを必要とし合った。
そんな他の夫婦を凌駕した関係を築きながらも
フリーダの身体は歳を負うごとに痛みから激痛へと
悪化してベットから起き上がれない状態へとなる。
生涯で30回の手術を受けたフリーダは壊疽が原因で
もはや鎮痛剤では耐えられなくなり右足を膝まで
切断します。
その時彼女は
「飛ぶ為に翼をもっていれば、どうして足など必要だろうか」
そう言い残したと言います。
それでも彼女の身体は限界でした。
1954年7月13日フリーダカーロ死去。享年(47歳)
彼女が最後に書いた作品はスイカ
出典:http://blog.livedoor.jp/chachachiako/archives/35952782.html
そしてそこにはVIVA LAVIDA
人生万歳!と書かれてありました。
再婚してからも相変わらず自立した関係として
お互いを精神的に求めながらもディエゴは最後まで
女と浮世を流します。
そんな彼はフリーダ火葬後に彼女の骨を手に
取って口にしたと言われます。
出典:http://legacy-frida.info/frida_kahlo.html
彼女の死後3年後に後を追うようになくなったディエゴ。
フリーダの死後見つかった日記にこう書かれてありました。
『ディエゴに感謝、そして愛する全ての人の為に生きようとする
私の途方も無い意思に感謝』とつづられていたそうです。
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おわりに
6歳の小児麻痺に始まりメキシコ最難関の国立高等学校に入学できるレベルの優秀なフリーダの生涯は数えきれない程の肉体的苦痛、(激痛)と、愛するディエゴの女性との情事を芸術に昇華する性癖とのはざまで常に苦しみ葛藤しながらも自身も、そんな人生を振り払うかの如く愛に生きてそして他者への依存を恐れ最後まで自立した女性として作品を作り続けた彼女。
最後の作品となった「VIVA LAVIDA人生万歳」の言葉と燃えるような生命力を感じざる得ないみずみずしく魅力的な女として短くも激しい生涯を生きたフリーダを見て今の私の寝ぼけた気分が一発で目醒めた。
人生を最後まで諦め無かったフリーダに習って人生万歳を目指して生を全うしなければと思わされるばかりである。
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